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友川カズキプロフィール 農家の次男として生まれる。中学校時代は歌手・舟木一夫にあこがれる野球少年。勉強嫌いで文学にも無縁だったが、ある日、図書館で中原中也詩集の 「骨」を目にして衝撃を受け、自分でも詩作を始める。どことなく太宰の面影を感じさせる彼は文学的指向が強く、中原中也の詩に曲をつけたアルバムも発表し ている。能代工業高 校建築科に進学。教科書は開かず、文学書の乱読とバスケットの練習に明け暮れた。太宰治と小林秀雄に 激しくひかれた。 高校卒業後、日本橋の婦人服卸問屋に就職したが、六ヶ月で退社。秋田訛りがひどく気になり、トイレに隠れて「いらしゃいませ」「ありがとうございました」 を練習した。自意識過剰の男が接客に向くはずもなかった。その後、友川かずきと名前を偽って練馬の飯場にもぐり込む。及位という本名を笑われるつらさから だ。現在の芸名、ペンネームは、この時初めて使われた。以後、新聞配達、労務者、旋盤工、喫茶店のボーイ、クラブ歌手と、転々とする。 上京後、職を転々とするかたわら、URCレコードでのアルバイトを通し、あがた森魚と知り合い、中津川フォーク・ジャンボリーに参加。その後、故郷 に一度帰るも再び上京、そこで恩人・宇崎竜童と出会う。彼の尽力によりシングル「上京の状況」や「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース、 これを機に頭脳警察や寺山修二とも親交を深めた。 二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」..何かがグサリと胸に突き刺さっ て涙が出て止まらなかった。友人からギターを譲り受け、それまで作詞した詩作に曲をつけ、歌うようになった。 1974年3月「上京の状況」でデビュー。続いて「生きているって言ってみろ」を出すが、ニューミュージック全盛の時代、全く、といっていいほど売れな かった。 高校時代や一時故郷にいた頃のエピソードは、秋田県立能代工業高等学校バスケットボール部を全国大会で33回優勝させ、同部を全国屈指の強豪校にした、能代工業時代の恩師である加藤廣志著 の『高さへの挑戦』に詳しく描かれている。加藤廣志は友川かずきを自分以上のバスケバカで、環境によっては最大のライバル指導者になっていただろうと彼を 評している。実際、彼が同校のバスケットボール部のマネージャーだった時、有望選手を独自に育てている。また、故郷にいた時に中学校時代の小野秀二をコーチとして鍛えたのも彼だった。 上京した時に競輪を見て以来(川崎競輪場だと言われている)、競輪観戦を趣味としている。現在では趣味を越えてTV中継のゲストとして呼ばれる事も多く、出演したTV中継では名(迷?)言を残す事があり、競輪ファンの中では人気がある。 中上健次は友人であり、友川の絵を高く評価していた。 From WIKI |
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Jugem |
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